競輪70周年特集>①井上茂徳氏・吉岡稔真氏が振り返る、印象に残ったあのレース
88年高松宮記念杯
ラインの重みをあらためて感じさせられた

井上茂徳氏・高松宮杯競輪で中野③を追った井上(左から2人目)が初V


 

 初めて特別競輪を獲れた81年の立川オールスター(GⅠ)や、86年の立川グランプリ(GP)など記憶に残るレースはたくさんある。だけど、グランドスラムを達成できた88年の高松宮記念杯(宮杯)の決勝はラインの重みというものをあらためて感じさせられた一戦だった。

 

 当時の宮杯は東西の勝ち上がりで決勝には東から4人、西から5人がコマを進めていた。西の陣容はこうだ。富原忠夫さん(故人)を先頭に中野浩一さん―私―昭彦―浩三(佐々木兄弟)がズラリ並びシフトを固めた。東はというと滝沢正光―馬場進の千葉コンビに高林秀樹、小磯伸一が進出していた。

 

 徳島所属でも親交のあった富原さんが大ギアを使って先行してくれ、中野さんが番手まくり。中野さんをゴール前で何とか差せた。あの頃の滝沢は抜群に強かった。東が5人いたら勝てなかったかもしれない。私にとっては有利なライン構成だった。他の公営競技とは違い、競輪は一人では決して勝てないから面白い。私がグランドスラムを成し遂げられたのは分厚く絆で結ばれたラインがあったから。88年の宮杯決勝はとくにうれしかった。

 

 井上 茂徳(いのうえ・しげのり)1958年(昭33)3月20日生まれの60歳。佐賀県出身。41期生として78年5月プロデビュー、99年3月の静岡ダービーで引退。 通算成績は1622戦653勝。通算取得賞金は15億6486万円。GⅠ優勝は9回、グランプリは86年、88年、94年の3回優勝。99年4月から本紙評論家。


立川KEIRINグランプリ95
溜飲を下げた一戦

当時のスポーツニッポン(1995年12月31日付)


 

 ファンの声援、それと選手仲間や周囲が励ましてくれたおかげで特別競輪(グランプリ含む)を13回優勝することができました。そのうち、もっとも思い出に残っているのは95年の立川グランプリ(GP)を制したときです。当時の神山さん(雄一郎=61期)はそりゃもう勢いがあった。

 

ボクはデビューから5年目。それなりの実績を残せてはいたけど、神山さんには決勝で何度も苦戦を強いられました。まして、このGPを勝てば神山さんは年間の獲得賞金が当時としては初の2億円に到達するというからメディアも大きく取り上げたことを覚えています。

 

 ボクは、というとその年の秋の世界選手権(コロンビア)のケイリン種目で落車し左鎖骨を骨折。GPがぶっつけ本番でした。決して万全ではありませんでしたが、満身創痍で臨んだ大一番でライバル視していた神山さんの2億円を阻止するとともに、92年の平塚GP以来、2回目のGPを獲ることができたのです。17年間の現役生活でトータル1279走し、走るたびに一喜一憂したけど、95年の立川GPは溜飲を下げた一戦として、今でも深く記憶に残っています。

 

 吉岡 稔真(よしおか・としまさ)1970年(昭45)6月15日生まれの48歳。福岡県出身。65期として90年4月プロデビュー、06年12月・京王閣グランプリで引退。 通算成績は1279戦586勝。通算取得賞金は16億8866万円。GⅠ優勝は11回、グランプリは92年と95年の2回優勝。07年3月から本紙評論家。