15日決勝のいわき平競輪スポニチ杯を取材した。そこで今回は「いわき平競輪史」をJKA執務員の山崎英俊氏に学んできた。山崎氏は父が平競輪施行者の元所長、母が平競輪の実況中継の元アナウンサーという〝平競輪家族〟出身です。
東日本競輪場史は12月に始めた伊東から宇都宮、前橋に続いて4場目。いわき平もまた36年連続で取材している競輪場。1年間で平均20泊はしてるから20×36=720日、約2年間は住んでいる計算になり、競輪場と町に思い入れがある。
平競輪場は51年(昭26)に開設。78年(昭53)3月に初めて特別競輪(第31回日本選手権)が開催された。その後は80、83、86年にオールスターを開催。当時は特別競輪を開催できる競輪場は条件面で限られており、平競輪場は東日本地区の大場所だった。
平競輪から「いわき平競輪」に正式名称が変更されたのは91年(平3)4月。いわき市が市制施行25周年の年だった。
94年(平6)9月のオールスターは忘れられない。出口真浩(神奈川)が特別初制覇を飾った。しかし12月の立川グランプリに出口の名前はない。当時はグランプリ出場の選考基準の一つに「S級1班に在籍」があった。出口は94年12月~95年3月(当時は1期4カ月間で年3期制)がS2により権利がなかったのだ。
いわき平の記念競輪の名称は「いわき金杯」。記念が前節、後節各3日間の時代(02年3月まで)はいわき金杯は12月開催が定位置だった。ちなみに99年記念の優勝は前節が金古将人、後節が岡部芳幸、00年記念の優勝は前節が岡部芳幸、後節が伏見俊昭。「福島時代」の始まりだった。
そして06年10月に〝空中バンク〟としてリニューアルオープン。同12月の全日本選抜から昨年5月の日本選手権まで多くのビッグを開催して現在に至る。空中バンクの特徴の一つはバンクの中からのレース観戦。5周競走なら自分の体も5回転する感覚は空中バンクならではだ。
◇中林 陵治(なかばやし・りょうじ)1962年(昭37)生まれ、熊本県出身の60歳。慶大卒。87年4月入社、同5月から競輪記者。以来、現場取材一筋36年。いわき市内の居酒屋、深夜営業の町中華、サウナは把握している。