ニュース&記者コラム

【我が道 井上茂徳④】高校で大好きな自転車の道へ

 私は父・光、母・ヤヨイの長男で3人兄弟です。佐賀市で生まれ育ちました。小学校、中学校のころは釣りと自転車が大好きで、学校は好きな時間に行ってました。私の言い分としては「基本をちゃんと教えてもらってなかったんです」。おい(俺)は、少しゆっくり行ってた、だけたいっ(笑い)。

 運動は中学の時、最初、体操部3カ月だけで、バック転はできたんですよ。ただ、限界を感じてやめて、それから夏は暑いから水泳部に。ほんと私、自由でしょ。その時、監督がいたけど、全然、顔を出さない。教えにも、こんたいっ。どうして水泳を覚えたかというと、ほとんど独学。それでも平泳ぎでは、佐賀市で3位にまでなったんです。県大会に出場できることになったんですが、私は行かなかったんです。なぜか?台風が来ていたので。これは危ないぞ、洪水になると思ったたいっ。でも県大会は実施されていて友人から「放送で、あんた名前呼ばれていたけど立ってなかったばい」と笑ってました。

 高校は機械関係に興味があり機械いじりが好きだし、手に職を付けようと、佐賀県立佐賀工業高校に入学。しばらくして、なんかつまらんなーと感じ出してしまい…。龍谷高の監督と親交があり「それならウチに来なさい」と声をかけられ転校を決意。半年後に龍谷高に入り直しました。工業科から普通科になるので校長室で転入試験があり、優秀な成績で(笑い)めでたく合格しました。

 とにかく自転車が大好きだし、とことんやってみようと…。龍谷高3年の時はインターハイに出場しました。ポイントレース(※競輪の延長、20~30人の選手が同時に走り、レース中に獲得したポイント数を競う競技)で全国で2位に。そのころ、競輪学校39期生募集の願書は出していたんです。ただ翌年の佐賀国体出場の要請もあって、競輪学校を受験せずだと次の試験で影響にあるかも…という思いがありました。そういう経緯もあり形式上、受験した流れでした。次に向けての経験になると感じていたので。そのころ法政大学の方からも勧誘があり、いったんお世話になりました。

 大学1年の時にインカレで80㌔のロードレースに出場し、結構いい仕事をしたんです。先輩から「最初から先頭で行って、ペースをつくってくれないか」と頼まれ私は「分かりました」と二つ返事。気持ちよく駆けていきました。本来ならペースメーカーは最後、失速するのですが後ろの方でけん制があり、まんまと私が逃げ切った。この勝利で総合的な結果は、わが法政大が日大を負かして優勝。私はこれで満足し、夏休みを利用して、故郷・佐賀に戻りました。

 1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。

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