ニュース&記者コラム

【我が道 井上茂徳⑦】有明海沿いの堤防が私の礎

 41期生、新人研修でやってしまった宴会がバレて半年間の出場停止。大好きな競輪のレースに出場できない。稼ぎがないたいっ。困ったもんです。

 みんなと食事に行くことが好きだし、ワイワイ楽しくやっていきたい年頃です。普通の選手なら落ち込んで心改めて反省し、練習に打ち込む感じになるんでしょう。温厚な師匠(倉富義夫=佐賀1期)にも激しく叱責されたわけですから。

 ただ私は落ち着いたもんで、その後、競走に向かっている仲のいい同期の応援団に回ってました(笑い)。
  「頑張れー」と。仲が良かった同期で生き残ったのは肝付宏樹(福岡41期)、岡本誠也(熊本41期)。この名前を知ってる、知ってるーとつぶやいた方は、かなりの競輪通(※仲の良い同期はほとんど飲んでいたので)。

 陰の応援団は、一生懸命、同期にエールを送りながら、いい成績を収めてくると「よしよしっ。でかした」と自分のことのように喜んでました。当時は彼らに、ご飯をごちそうしてもらったりして、助けてもらいました。心優しい同期がいるとうれしか。私がこういう状況の時でも、同期の絆というか手を差し伸べてくれる仲間がいるのはありがたいそれは、どんな仕事をされていても、相通じるものがあるはずです。

 半年間の出場停止、最初の3カ月は地区ごとの新人合宿(選手会主導)を頻繁にやり、エンジンがかかってきたのは自粛欠場の後半3カ月。

 優しい潮風が流れている有明海沿い堤防。直線3㌔。ほんと練習には、もってこいの場所です。あとは佐賀県と福岡県を隔てている山での練習。傾斜もありきつい練習でした。その頃に何本も繰り返し乗り込み、鍛えていきました。モガキ練習は本当にきついですよ。でも、この積み重ねをやっておかないと競走で結果が付いてこないですから。とにかく、その時はお酒も控えつつ、真剣に向き合ってました。

 自粛明けは、すぐにA級からスタート。B級でA級の得点を取っていました。玉野で1着、1着、3着。その後15連勝して川崎で落車でした。

 その後、特別競輪にも出場できるまで上がっていきました。あのむちゃくちゃ苦しかった練習があったからこそだと思います。

 デビュー後、しばらくは先行、捲りの戦いでしたが、勝つため、上位に上がるためには追い込み選手になった方がいいと感じていました。自転車は力とハンドルさばき、戦略と考えていました。あの当時、新人が先行、捲りの戦い方から、すぐに追い込み選手に変わっていくことは珍しかったですね。78年5月デビュー、半年間の自粛欠場があり特別競輪の舞台を踏めたのは79年9月岸和田オールスター。特別デビュー戦1走目、なんと結果は…。

 1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。

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