
92年、名古屋オールスター優勝戦の振り返りから。あのレースは(吉岡)稔真と65期同期の海田和裕(三重)が主導権を取っていきそうな感じでした。相手のラインはその3番手を取り、まくりたい。64期の高木隆弘(神奈川)、55期の鈴木誠(千葉)も、そういう戦略だったでしょう。我々の九州勢は3人。稔真に私、3番手を55期の平田崇昭(福岡)が固めてくれました。あとは稔真が落ち着いて実力を発揮してくれれば…。
私はレース前に「お前の力なら小細工せず行けばいいから」と伝えていました。ただ勝負事ですから何が起こるか分かりません。稔真が打鐘から最終ホーム(残り1周)にかけてサンド(挟まる)になり、踏めずに締められた。ここで稔真が焦りながら前へ踏みましたが進んでいかない。私の位置は最終バック(残り半周)7番手あたり。
稔真はもう厳しいと見えて、私は前のコースを探しながら突っ込んでいきました。スピードをもらえず行ったもんですから、見た目はいい感じで進んでいるように見えても、本人はそうでもなかったんですよ。最終4コーナー手前、2番手を走っている松本整(45期・京都)の内は開いていましたが、逃げている海田のところのインコースは正直、微妙でした。競輪を知らない方に説明するとバンク全体の内に2本の白線があり、外側が外帯線(がいたんせん)。その幅70㌢。外帯線よりも内を走る選手をさらに内から追い抜くことは禁止されています。
私としては入った瞬間は開いていた。ただ4番(海田)のところは際どいけど突っ込んでいかないとタイトルは獲れない。ゴールは私が2着以降に差をつけて1着入線。手も上げてファンの声援に応えていましたが、審議のランプがともっていました。
結果は1着失格。決まったことは仕方がない。私から買ってくれていたファンの方に、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。失格が決まった時に私の後輩である佐々木昭彦(43期)が目を真っ赤にして、私以上に悔しがってくれていたことは今でも鮮明に覚えています。この失格ペナルティーで、同年の地元地区のビッグレース競輪祭に出場できませんでした。
終わったことは引きずっても仕方ない。気分転換が大切です。
そういう時は大好きな磯釣りに限ります。かなり厳しい沖(五島列島のさらに沖合)ですが、大きいイシガキダイを釣れば「また次のレースで頑張っていこう」と自然に前向きな気持ちになったものです。次回は競輪祭のエピソードに触れていきます。
競争が終わって一番の癒しは磯釣り。五島列島沖合の秘境で釣り上げたイシガキダイ
1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。