
88年高松宮記念で優勝して当時の5大特別競走(※オールスター競輪81年、日本選手権競輪83年、競輪祭82、84、85年、全日本選抜86年)を全冠制覇。私を支えてくれた全ての方に感謝の一言です。
その年、11月の競輪祭決勝は凄い天候でした。発走機でスタンバイすると瞬時に上空が真っ暗になり雷が鳴り響いた。発走と同時にひょうも降ってきて、周回ごとに積もっていく。私は走れる状態ではなく、踏み止めたほどです。しかしレースは中止の合図も出ない。再度、走り始めました。打鐘前、誘導員が待避と同時に滑って転ぶほどの状況でした。
おい(私)は直接マークする西の先行選手がいなくて、松本聖志(岐阜53期)、佐藤嘉修(愛知49期)の中部勢の3番手から様子を見ていました。勝負どころで松本が怖がって仕掛けられず、番手の佐藤がまくって行き、最後の直線はインから外を追い込みましたが届かず2着。1着は逃げた滝沢正光をマークした江戸鷹こと山口健治さんで2度目の競輪祭優勝でした。走り終わったあと、太腿などの脚は全員がミミズ腫れしていたほどです。後日、関係者から、あの状況で中止せず続行させたということで謝罪と御礼がありました。
88年KEIRINグランプリの記者会見(右から4人目が筆者)
競輪祭が終われば、年末の大一番、88年第4回KERINグランプリです。その前に、地元地区の佐世保記念があり当然、走りました。2着、2着で来て決勝が落車。あんまり転(こ)けない方なんですが…ね。そこから約1週間後に大事な戦いがある時期でした。病院でエックス線を撮ると診断は「左肋骨にヒビ」。
37年前、今だから書ける話ですが佐世保記念の帰り、付き合いのある、お寿司屋さんに寄りました。その時、血痰(けったん)を吐きながら、おいしい刺し身や寿司を食べた思い出があります。
佐賀に帰ってからグランプリに向けて、どう調整していくか。2~3日静養して練習再開。いつもの激しい練習はできない。体と相談しながらやろう。
車誘導で風圧をなくしての回転練習。あとは舞台となる立川競輪場に入って前検日、初日、2日目の公開練習や、レースが終わってから夕方の練習で仕上げていこうと考えていました。少しずつ体をならして雰囲気をつくっていましたね。過去2回出場の経験があるので、そのあたりは冷静に自分自身と向き合ってました。
12月30日、発走予定時間16時12分。この時季の立川は夕暮れが迫ると、気温が一気に下がり、冷たい風も吹いてくる。午前と午後ではバンク状況も違うのでイメージしながら、3度目のグランプリ当日を迎えました。
1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。