
91年3月末、一宮競輪場であった日本選手権は決勝を迎えます。メンバーは次の通り(左から枠番、車番、選手名、登録地、期別)。
1❶中野 浩一(福岡・35期)
2❷鈴木 誠(千葉・55期)
3❸井上 茂徳(佐賀・41期)
4❹江嶋 康光(福岡・39期)
4❺小磯 伸一(福島・47期)
5❻坂巻 正巳(茨城・55期)
5❼平田 崇昭(福岡・55期)
6❽小川 博美(福岡・43期)
6❾金田健一郎(大阪・60期)
(※当時の並び予想は車番で❾③・❼❽❶④・❷⑥④、白抜き数字が仕掛ける選手)
決勝前日、ベテラン記者さんでも困惑してましたね。どう並ぶの?オイ(私)は九州でまとまりたい。でも久留米勢4人で結束するという。
競輪が分からない方に説明すると、福岡県は北九州の小倉(※以前は門司もありました。02年3月廃止)と久留米の練習グループがあり、同県でも小倉、久留米同士で連係することが今も多いんです。
ただ、今回は勝ち上がりの経緯(特に準決勝)を考えると、5人でも九州で一つになるのが自然と感じていました。しかし、久留米4人でまとまり、さらに中野さんが近畿単騎の金田に付くという話もあったんです。「寝耳に水」と書けば分かっていただけますか。
筆者の前で頑張ってくれた金田健一郎
中野さんと私、考え方の相違はあると思いますが、競走に対する信念、軸は絶対ブレない。鈴木誠に付くことはない。そこで記者さんには(金田)健一郎に行くと答えました。久留米勢は脚見せ(※選手紹介)でも、どう並ぶか分からない。今回に限っては敵です。
先行選手がスパートし、力尽きたところで番手選手が代わりに先行することを2段駆けといいますが、久留米勢はライン4人を生かして3段駆けをもくろみました。ただ、当時(鈴木)誠は凄く力を付けている時で、レースでは残り1周になると久留米勢を追いかけるように同期・坂巻を連れて一気に駆けた。そこで前を任せた健一郎が最終バック(残り半周)、いいスピードでまくったけん。
「決まった」
一宮は地元武雄と同じぐらい直線が長く、健一郎と私の勝負になる。(※金田君、今も現役。58歳A級2班。頑張ってね)。
しかし先行した誠にも意地があったんでしょう。最終3角過ぎにヨコへ振って健一郎がぶつかり落車。後ろの私も乗り上げて落車。優勝はS級2班の坂巻君でした。
レースが終わればラグビー風に伝えるとノーサイド。勝者を称える。それが基本です。表彰式後に「おめでとう坂巻君」と声をかけました。彼にとっては初のタイトル。
ただ今回の件で「これからは好きに走れということだな」と…。それが91年7月、福井ふるさとダービーで明らかになります。
1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。