
94年KEIRINグランプリは3度目の優勝。翌日のスポーツ紙を見ると「不滅の鬼脚!!」。今、子供から見れば人気アニメ「鬼滅の刃」みたいな感じかな(笑い)。ともかく翌95年も気を引き締めて戦いに挑みました。
特別競輪でいい成績を残すことができませんでしたが、95年GPは前年覇者の資格で出場しました。
当時、オイ(私)は37歳。もちろん、吉岡稔真マーク。稔真は、この年タイトル制覇がなく、同年後半の世界選手権で落車し、左鎖骨を骨折。記念を2場所走って迎えた大一番。対する神山雄一郎は特別競輪3勝(高松宮杯、全日本選抜、競輪祭)。東の横綱です。それでもGPの季節になるとオイでしょ。4度目の優勝、狙ってました。
立川競輪場の観衆は約4万人。競輪を見ることが初めてのような若い女性の方も多く来ていただいた記憶があります。85年のGP初出場、入場の時は鳥肌が立つほど。あれから10年、場数を踏んできたので落ち着いたものです。
レースは年間獲得賞金2億円に王手をかけていた神山君が豪快に逃げて、稔真が捲り返す流れ。オイは4角で少し突っかかり、外を踏むよりエアポケットになる中割りを選択。内の神山、外の稔真が踏み合い、併走状態でコースが空かない。踏み込んで行けるタイミングが遅くなってしまった。脚に余裕があったし、外を踏んでいれば良かったばいっ!!と今でも思ってます。結果は3着でした。
ゴール後は「稔真、おめでとう」。これが最後のGP出場になりました。
95年のKEIRINグランプリを制した吉岡稔真
そうそう、競輪場がある全国各地の記念レース(現在GⅢ)を振り返れば、結構優勝しました。我々の時代は3日制(※前節、後節と分けた記念レースで、現在は4日制、年1回)。特別競輪で活躍する猛者が集まる大会でしたから、厳しい戦いたい。おかげさまで通算110回優勝。中野浩一さんの記録116回は超えたかった。昨年引退した神山雄一郎は99回で第3位。
地元武雄記念は81年から88年まで8年連続優勝。90、91、96年も優勝して通算11V。最初の記念優勝が80年1月15日の佐世保。最後の記念優勝も佐世保(96年12月17日)。今でも大好きな佐世保というのも縁があったのでしょう。
記者さんに調べてもらうと競輪場優勝場の数(記念や特別競輪開催)では現役のころ49場(※廃止になった花月園、一宮、西宮、甲子園、びわこ、門司含む)あり、43場で優勝。これは第1位。ありがとうございます。
ただ38、39歳のころから特別競輪で激しい競走ができない自分がいました。落車が重なり、骨折も続いた。現実を見つめる時が来たかと…。
1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。