ニュース&記者コラム

【我が道 井上茂徳⑮】ゴール後落車もGP初優勝

 86年(昭61)立川KEIRINグランプリの続きです。号砲と同時に私が前へ出てS(スタート)を取り、中野さんを入れる。3番手以降が(滝沢)正光―(佐々木)昭彦で単騎の菅田さん。6番手からハル(本田晴美)に伊藤豊明。後方8番手に東京勢の清嶋さんにヤマケンさん(山口健治)の順番で静かに周回を重ねました。

 立川に4万人を超す大観衆。こういう舞台で走れることは本当に幸せだなと感じました。レースは残り2周から動き出し、真ん中にいた菅田さんが誘導員の後ろに付いている中野さんを抑えて先頭に。そこで地元東京勢がさらに抑えてうまく入り込んでいきました。

 当時、誘導員はどんどんスピードを上げていく競輪で、清嶋さんとヤマケンさんにとっては理想通り。鐘(ジャン)が鳴って、まだ誘導員が引っ張る形。

 残り1周の並びは清嶋さん―ヤマケンさん、3番手に菅田さん。我々は4、5番手。

 一列棒状のまま最終3コーナーを迎え、後ろからまくってきたハルと前の中野さんと私は真ん中の位置でかぶった状態。厳しい形です。

 最終4コーナー手前で私はインの6、7番手。400走路の立川競輪場のみなし直線距離は58㍍。長い部類には入ります。ただ、展開がキツイ。もう外は無理。内しかない。

 直線ではインコースに入り、逃げ粘る清嶋さん、2番手のヤマケンさんの間を割りたかったですが、ヤマケンさんはコースを空けないように閉めて走っている。そこで清嶋さんが少し外へ流れた時に、その内に入りました。一発勝負ですから落車するか失格するかぐらいの覚悟です。

 ゴールの時は体が斜めになりながら私と清嶋さんがぶつかりながら入線して、ゴール後は2人とも落車です。

 力を振り絞って走ってましたから転ころけた私は大の字になったけど〝届いているたいっ〟と信じていました。審議と写真判定のランプがともっていましたね。私は立ち上がって、敢闘門に向かって引き揚げました。激しく転けたのでユニホームの右肩あたりが破れていました。

 しばらくして放送があり、入線通り確定。私が1着、2着清嶋さん。決勝審判がちゃんと(内の)コースは空いていると判定し、よく見てくれていたと思いました。

 これでみんなと一緒に楽しい忘年会もできる(笑い)。気持ちよく年も越せる。86年、真の日本一を決めるグランプリ初優勝。雨が降っても苦しい練習を続けて良かったと実感した大一番でした。

 1958年(昭33)3月20日生まれ、佐賀市出身の67歳。競輪学校41期生として78年5月デビュー。GⅠ通算9勝。KEIRINグランプリは3度優勝(86、88、94年)。代名詞は鬼脚。99年3月31日引退。通算1626戦653勝。優勝回数154回、獲得賞金15億6643万円。現在、スポニチ評論家として活躍している。

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